ふにゃこ
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戦没者・その2
2015-04-26 Sun 17:37
 日本でも戦没者慰霊の記念イベントが終戦記念日にあるし、各地の遺族会などがあちこちで催してもいるのだろうけれど、もうそれだけでも右だの左だのという声が聞こえて来て、一般的な式典とは言いがたいかも知れない。少なくとも私自身がそうした会に関心を持ったこともあまりなかったし、身内でもそんな会に参加している人がいるというのを聞いたことがなかった。

 戦争は避けがたいものなのかも知れないけれど、それでもやはりすべての面で愚かしいものだと思う。現代国家の一員ともなれば、国難の際には弾の一つともなって、敵を殺すことも正当とみなされ、国家体制は守られることもあるだろう。けれど、そうやって無惨に亡くなった後に残るのは、戦争をすることを決め、机上で作戦を練った権力者なのだ。後から勲章をもらおうと、美談を伝えられようと、家族にとっては悲劇そのものだ。国家を守る、という戦略の意味は分からなくもないけれど、現場で個々のケースを見るならば、互いに面識もない相手から無駄に殺されているだけだ。それは近代の戦争はどれもそうだろうし、残念ながらANZACの兵隊さんたちもそのようにして亡くなったのだと思う。

 戦地でのそうした扱いはともかくとして、今回とても印象的だったのは、若い人たちでさえ、自分たちの祖先が戦場で亡くなったことをよく知っていて、記念行事に参加し、亡くなった家族の写真をみんなで大切に共有しているというところだった。我が子の世代ならば、既に戦闘に参加したのは、曾祖父のそのまた親ほどの世代になるにも関わらず、である。
 なぜなら、日本では乳国よりもはるかに大勢の人が亡くなっていて、ガリポリの戦いのような記念すべき戦闘もたくさん経験しているはずなのに、国を挙げて(という意味は、学校や小さな町レベルでも、ということ)亡くなった人たちを弔うことをしていない。兵隊さんだけでなく、空襲などで亡くなった大勢の市民についても同じで、例えば、阪神大震災の記念行事のような形での記念イベントは行われない。
 多過ぎて数えきれないほどだから、というのでは亡くなった人々も浮かばれないというものだ・・

 乳国では、退役軍人の会はかなりメジャーでもあり、ANZAC Dayのインタビューなどに答えている元軍人の中には、何となく、ノスタルジックに戦争を語っている人もいることはいるけれど、日本でもこうしたイベントが、ある種の反戦運動や、反対に好戦的な人たちの動きとは関係のないところで、もっと身近に語られるようになる方がよいと思ったのだ。
 これからの戦争をどうすれば避けられるのか、という問題とは別にして、国家を守るという大義名分で犠牲になった人々をただただ偲べるようになれないものなのだろうか。
 三度目のANZAC Dayを迎えて、そんなことを思うのだった。

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Terezaのお別れパーティでした。ロシア人も大勢いて、ロシア語が
飛び交います。

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子どもは子ども席へ。

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最後にみんなで歌を歌っておひらきに。

最後にクリック^^;
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戦没者
2015-04-25 Sat 17:34
 状況的には既に大三次世界大戦のさなかにいるのだろうという気がしている。戦争のやり方が変わっただけのことで、権力者が己の欲望を追い求めて、表向きは美しいキャッチフレーズで飾りながら、普通の善良な人々を巻き込んで行うゲームであるのは同じだ。
 ところで4月25日はANZAC Dayという祝日で、3度目にしてようやくこの日が乳国人にとって、どのようなものなのかがいくらか見えてきたところである。今年は100周年ということで、これまで以上に新聞やニュースでも特集が組まれたり、記念のグッズもいろいろと目にする。

 ちょうど前日の金曜日にはAvalonのボランティアだったのだけれど、ここでも丸一日をかけて、いろいろな取り組みがされていた。まずは集会所にもなっている食堂で、ガリポリの戦いについての特集動画を見ながら、一部の人たちはANZACビスケットを作った。
 ANZACクッキーを作りたい人は・・とスタッフの一人が言うと、クッキーはアメリカの言葉で、ANZACはアメリカとは関係がないし、ここは是非ビスケットと言ってもらいたい、と別のスタッフが突っ込みを入れた。世代が若くなるほど、クッキーという言葉には違和感が無くなっていくようだけれど、年配の人たちにはやはり外来語的響きがあるようで、ビスケットでしょ、と直しているお年寄りを何人か見かけたことがある。

 モーニングティータイムには焼きたてのビスケットを食べ、ランチまでの時間には、今度は通所者やスタッフの家族でANZACに参加していた人やその他の戦闘に行ったことのある人をそれぞれの家族が紹介する、というメモリアルイベントを行った。 おじいさんやひいおじいさんなどがどのように戦闘に参加して、ある人は戻ってきたし、ある人はどこで亡くなった、どのような功績があった、という話を2時間たっぷりと聞き続けた。聞いている人たちも居眠りすることもなく、みんな真剣なのだ。

 印象としては、例えば特攻隊で亡くなった若者たちへの思いに通じるものがあるように感じたし、それに加えて、トルコのマシンガンを前に勇敢に戦った父祖への誇りも感じられた。尤も、基本的には負け戦だったし、戦果を誇るようなものではなく、そこは乳国人らしい謙虚さを感じるのだった。
 乳国は本土を攻められたこともないし、当時は母国イギリスの戦争に協力した形で、乳国自体が他国と戦争をしたこともないからなのか、およそ戦争記念日と言えるのはこの日だけである。だからなのか、この大昔の戦闘に対していくらかノスタルジックな雰囲気で臨んでいるようにも感じられる。

 翻って、日本の戦争記念日はどうかと言うと、亡くなった人々への鎮魂として行うのは、広島と長崎の原爆の日くらいで、近頃では終戦記念日もあまり目立たなくなって来たし、ANZAC Dayのように戦地で亡くなった兵士たちを弔うことは一般的ではなくなってしまっている現状がある。長くなったので続きは明日・・

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お呼ばれしました。

お呼びです^^;
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議論下手
2015-04-04 Sat 16:17
 キウイたちが話し合いをスムーズに進行する場面に何度か遭遇してから、いや、その前からでも、日本人同士の議論は、すぐに非難合戦になってしまうか、あるいは逆に、波風立てないために誰もが言うべきことにも口をつぐみ、表面上は和を大事にしているかのような、だからあまり有意義な話し合いにならないかのどちらかになりやすいことは感じていた。

 教室で子どもたちに意見を求めると、そう大したことでなくても、はいはいと手を挙げて、臆することなくものを言うキウイッ子も少なくない一方で、日本の普通の教室ではこれがなかなか出来ない。キウイのお年寄りの集まりでも雰囲気は似たような感じなので、教育現場がそうだから、というよりは、そんなカルチャーがあるから、そんな学校になるのだろう、と思う。
 日本では英語をスタートする年齢をさらに早めて、外国人と正々堂々と議論出来る人間を作りたいのだという。いつも書くように、それは英語力とはほとんど関係のないところでのスキルの問題なので、即刻やめた方がよいと思っている。

 では何が違うのだろう、ともやもやと考えていた。自分にOKを出せる、ということももちろん必要なことなのだが、それと同時に、相手にもOKを出しているかどうかが圧倒的に違うのではと思ったのだ。
 つまり異論に対しての姿勢である。例え自分と大きく違う意見を言うものがいても、それが宗教や思想上の大きな議論でなければ、いやあるいは、そうだったとしても、意見が違うからと言って、相手にnot OKを出さないのだ。
 言葉でそう言わないだけでなく、態度がそうなのだ。ときには、異論に対して、おどろいたり、戸惑ったり、という反応もあるけれど、そこに、自分の意見(特にそれが多数のとき)が上、異論は下、という意識がないように思う。そして残念ながら日本では無意識にそう考えて、そう行動してしまいがちなのだ、と思うのである。

 FBやいろいろなブログ等で、政治的にどちらかに偏った人たちの意見を見ていると(必ずしもジャーナリストなどではなく、多くは普通の人たち)、どちらの勢力も相手を見下し、相手の発言を小馬鹿にし、相手のちょっとした言葉尻をとらえては非難合戦をしてばかりだ。
 ここから抜け出したいと思う。同じ意見のもの同士なら議論する必要はそもそもない。議論するのは、意見が違ってこそである。
 私は小学生の頃から割合変わり者で、みんなと違う意見を持つことが割合平気だった。少数派でいることなどは、むしろ私の誇りで、多数派で安心している、意見など言わない人たちのことを上から見ていたと思う。
 けれど、この姿勢も、キウイの議論に見るような、異論を言う権利を認める、というようなこととは違って、むしろ多数派に対しての挑戦だったので、自分や相手にOKを出す、というのとはやはり違ったのだ。

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みんなで軽くサプライズパーティ。

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うすうす気づいていたかもですが、一応喜んでくれたジャネット。彼女の
不敵な笑いが大好きです・・

うふふ・・・
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言語と思考
2015-03-18 Wed 18:25
 考えというものは、頭の中に勝手のもやもやと湧き出てくるものではなく、言葉に出して初めて、自分が何を考えているのかが分かる、ということを、アドラー心理学のセミナーに出ているときに教わった。尤もこれは、アドラー心理学がそれを提唱しているわけではなくて、心理学の世界ではそのような考え方が多いようだ。

 実社会においても、例えばFacebookなどのSNSにおいても、いろいろな情報や人の意見が流れてくる。ちょっと小難しい政治問題や、歴史問題、さまざまな社会問題など、考えさせられる場面も多い。そんな記事や意見に対して、良いか悪いか、好きかきらいか、というようなコメントがたくさんつく。これまでの人生経験から、何となく浮かんでくる印象からも出てくるので、ときに感情的な答えや、体裁の良いものも散見される。
 情報自体が偏っている可能性もあって、反対勢力の意見を聞いてみると、また全然違う話になってしまうこともあり、先走ってしまう場合もあり得るのだけれど、そういうものに、いくらかでも意見をつけるようにしている。書いているうちに、自分の意見が目指している方向が定まることがある、というのも、だから自覚していた。
 このブログでも、ときに七面倒くさいようなことにこだわって書いているときもあるけれど、そうやって自分の立ち位置を確認しているという意味合いもあるのである。

 前置きがすっかり長くなったけれど、そうして意見を書くときの語学力、の話を書こうと思っていたのだ。日本の学校現場での英語教育は、この点をあまり考えずに、とにかく英語という言語を教えれば、国際舞台で堂々と話せる日本人が出来ると思っているようだ。
 語学はまったく不思議なもので、第一言語、母語の発達に、第二言語が追従するので、もしも母語が十分使えるようにならないと、他の言語を学んでも、それを越えるようにはならないのだという。だから、日本人に英語で議論出来る力をつけようとするならば、日本語力と議論する力とを高めなくては出来ない。

 日本で普通に高校に行っていれば、高校生レベルの日本語力が自然につくので、その状態で英語を学べば、そのレベルまでの英語力がつくことは期待出来る。それは、英語の早期教育とは別次元の問題なのだ。
 一方、日本人が外国の学校へ行くとき、母語が日本語で確立している年齢であれば、日本語を伸ばす努力をしないと、英語力が十分伸びない現象が起こりうる。また、日本語がまだ不十分な年齢であれば、母語をどちらかに決めて、そのどちらかを十分使えるようにならないと、もう一方も伸びていかないのは同じ事なのである。

 我が家で言えば、長女は既に日本語をある程度習得出来ているので、彼女の場合は英語オンリーにするよりも、日本語の補習を行うことで、今後の英語力を伸ばすことにつながり、まだ日本語を使いこなすことが不十分な末っ子は、英語を軸にした方がよいのかも知れない。家で、漢字の勉強や、いくらかの読書をしていても、せいぜい小学生レベルの日本語力までしか、当面は到達しないだろうから。

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フェスティバル向けにディスプレイ作成中。楽しんでやってくれる人がいて
くれてよかった・・

楽しんでやって^^;
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confident
2015-03-02 Mon 18:17
 そんなPTAの会合や、Avalonのスタッフルーム、ボランティアの集まりなど、人が集まる場所での、キウイたちの姿勢はとてもはつらつとしている。強気とか、自己主張が強い、というようなものとは違う、何か、積極的な、楽天的な、そんなものを感じるのだが、それは集まって何かを動かそうとするときに、とてもよく機能していると思っている。
そんな姿勢を、confident、と表現出来ると思うのだが、多くの人がこれをとても良い状態で持っているなぁと感じずにはいられない。

日本人は和をもって尊しとなすのだが、その際に、個をいくらか過剰に抑制してしまっているのかも知れない、という印象を対照的に持った。それは控えめ、謙虚、という美徳を超えて、小さくなる、身を潜める、という程度まで行き過ぎてしまっているのかも知れない。

 self-esteemの問題じゃない?と英語のtutorのJudyは言う。日本人の多くが、例え英語の知識があっても、話せないと思い込んでいること、話そうとしないことは、英語だけでなく、様々な場面で共通するこの残念な文化の影響なのかも知れない。
 だからこそ、英語のネイティブスピーカーの若者を大勢連れて来て、小中学校にばらまいたり、スタート年齢を下げてみたり、テキストの中身をいくらか軽薄にしてみたところで、日本人が今の状態よりも英語を話せるようになるはずがない、といういつもの結論にやはり到達してしまった。

 勉強や運動が秀でていたり、容姿が端麗だったり、何か特殊技能がある場合にだけconfidentでいられるような雰囲気が、現代の日本の小中学校にはあるように思う。いや、子どもだけの世界に限らず、大人にも当てはまるのではないか。だが、それでは他人と比較して自分が優れていると感じているだけのことであり、それではこの場合のconfidentに当たらない。
 乳国の教育システムや学習内容などには、少々の不満もあるのだけれど、この点については大いに評価している。

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日曜大工??

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いえいえ、立派なおひなさまでした。

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久しぶりに見た本物のおひな様に興味津々。

えっ、久しぶり?
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